フェノロサの墓の近くの高台から見た琵琶湖。左手の小高い山が近江富士(三上山)。

 

フェノロサと岡倉天心

 

フェノロサ(1853生、1908没)
岡倉天心(1863生、1913没)1906年にアメリカで「茶の本」を出版。

私はこの二人の名前を見ると心がざわめくのを禁じ得ない。日本文化・芸術を廃仏毀釈と欧化政策から守った人たちと理解する。二人は師弟関係にあったとされるが、お互いに感化された部分もあったのではないかと思われる。

 

廃仏毀釈の風潮や欧化政策の影響により、寺社などの仏像や美術品が相次いで流出した明治初頭、窮状を危惧した明治政府はこれらの宝物類の調査に乗り出した。
中でもフェノロサと岡倉天心は飛鳥・天平仏に深い感動を覚え、この邂逅を「一生の最快事なり」と語ったように、奈良での美の発見は、二人の後半生を決定づけた。

 

明治維新は政治的には成功であったかも知れないが、文化的には日本が西欧文明に飲み込まれることであった。そういう意味で言えば、日本は3度の敗戦を経験していることになる。「白村江の戦い」と明治維新と太平洋戦争である。

 

“The Book of Tea”茶の本
日本文化の神髄について、これほど分かり易く書かれた本を私は知らない。
老子―道教―茶―禅 これらは一本の細い糸でつながる文化の系譜であることを教えてくれる。
「我々は生活の中の美しいものを破壊することで、芸術を破壊している」
明治維新がもたらした日本文化・芸術の破壊に岡倉天心は心から血を流している。そのことを誰が知ろうか?

 

明治政府の無知による廃仏毀釈と欧化政策の影響が日本の仏教芸術を破壊する様を、心痛の面持ちで見たのはフェノロサと天心だった。
日本文化に深い関心を寄せたフェノロサは、助手の天心と共に、全国の古寺を訪ねて仏像や美術品の調査に当たった。

 

西郷隆盛らの下級武士は本を読むひまがあったら木剣のけいこに励めと教えられていたらしい。薩摩では一握りの知識階級以外は文盲でもよいと言う「文武両道」だったと思う。薩摩が明治維新の立役者になったことは間違いない。しかし、西郷隆盛に江戸幕府を倒した後の国家構想があったとは思えない。

 

日本書紀に「大友皇子は山前(やまさき)に身をかくし、自ら首をくくって死んだ」とある。長等山前は(ながらやまさき)と読むのだろう。

 

木立に半ば覆われた鳥居をくぐると、さみしい参道が現れる。かくれ神の社という雰囲気だ。

 

国宝の新羅善神堂(しんらぜんしんどう)。

かつて手前に拝殿が建っていたらしい。訪れる人も社を守る人も誰もいない。

 

明治牛乳の瓶受けがあるところを見ると、社を守る人はいるようだ。

 

法明院の本堂に向かう石段。かなりひなびた雰囲気がある。ここまで誰にも会わない。

 

法明院の本堂。享保8年(1723)に開かれた。

左手に墓地に続くくぐり戸がある。

 

フェノロサの墓。五輪塔形式の墓で、もともとは供養塔から派生したと言われる。

 

フェノロサ博士は、生前この景色が気に入っていたのだろう。少しビルが建ってしまったが。

 

偶然、新羅三郎義光の墓に出た。

土饅頭の寂しい墓だ。

 

下り坂は石の幅が狭く、老人にはやや危険だ。すれ違う人も追い越す人もいない。

 

少し迷って、新羅善神堂の参道に出た。

先にこの行き先表示板を見ておけば、迷わなかったかもしれない。

 

 

 

日本は戦後70年、一貫して欧米文化に占領され続け、「脱亜入欧」という軽佻浮薄な思想が今も日本を席巻している。1970年に三島由紀夫が死んで、明治維新後のフェノロサ―岡倉天心のような良心はまだ現れていないように思われる。

 

フェノロサの墓が三井寺の法明院にあることをつい最近まで知らなかった。
日本文化に深い理解と愛着を示したフェノロサは、明治18年(1885)には敬徳阿闍梨を拝して得度授戒を受け、法明院に滞在して仏教研究に励んだと言われている。1908年、ロンドンの大英博物館で調査をしているときに、フェノロサは心臓発作で逝去。遺言により分骨され、法明院墓地に葬られた。

 

<参考資料>
「三井寺」(三井寺にて販売されている48ページの冊子)

 

三井寺は正式には長等山園城寺という天台寺門宗の総本山であるが、ここでの記述は三井寺で統一する。

三井寺の草創は古く、約1300年前の天智・弘文(大友皇子)・天武三帝の勅願寺として天武天皇15年(686)、大友皇子の子、大友村主与多王によって建立された。


三井寺の北院と言われるところに、フェノロサの墓のあることで有名な「法明院」と国宝の「新羅善神堂」がある。三井寺を訪れたことがある人でも、ここまで足を伸ばすことは稀だろう。かくいう私も初回の三井寺訪問では行かなかった。

「新羅善神堂」がなぜここにあるのか、参考資料を読んでも良くわからない。そもそも天智天皇は新羅に散々苦しめられ、「白村江の戦い(663年)」では倭国・百済遺民の連合軍が、唐・新羅連合軍に敗れている。
敵国の「神様」をここに祀る意味が分からない。
一応、三井寺の公式見解を記述しておくが、いつの日か理由が分かれば記述したい。

 

新羅明神は、智証大師が入唐求法より帰朝される船上に現れ、「我は新羅明神なり、汝のため護法の神とならん」と告げられたことから、大師が現在地に祠を建立されたのに始まる。
源頼義はことに新羅明神を崇拝し、三男義光を社前において元服させ、新羅三郎義光と名付けた話は有名だろう。

 

 

 

明治3年に弘文(こうぶん)天皇と認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることが多い。享年25歳。

 

参道を進むと数百年は経っているだろうと思われる巨木が行く手を塞ぐ。右手に道があり、かくれていたものが見えてくる。

誰もいないので、失敬して格子の隙間から国宝を撮影した。建築についての教養を持ち合わせていないので、どこが国宝か分からない。

 

新羅善神堂から少し山道を登ったところに「法明院」はあった。

 

さらに石段は折れ曲がり、その先にようやく本堂が見え隠れしている。

 

長方形の池を持つ池泉回遊式の庭園という事だが、特に見るべきものはないように思われる。

 

案内板もかなり古いもののようだ。

遺品が保存されていると記載されている。

 

東海自然歩道を通り三井寺に抜けられる。しかし、あちこちに倒木があり、ここは下をくぐった。

 

源頼朝や義経ほどメジャーな人ではないので、案内板も載せておく。武人の墓にふさわしいのかもしれない。

 

平坦な道に出るとホッとする。法明院で工事関係の人に会った以外、誰にも会わなかった。

 

帰路、ジョウビタキがお出迎え。

代表的な冬鳥で、そろそろ渡りの季節がやってくる。人類も数百万年の間、渡りをしていたせいか、何か親近感を覚える。