御上神社の近くから見た近江富士(三上山)標高432m。

 

近江富士(三上山)

 

室町物語(御伽草子)に「俵藤太物語」という話がある。いろいろ脚色されて日本昔話になっているので、ここでは「藤原秀郷」野口実(吉川弘文館2001年刊)から抜粋する。

 

朱雀院の時、従五位上(藤原)村雄朝臣の嫡男で田原の里に住み、田原藤太秀郷と呼ばれる勇者がいた。ある時、藤太は父から先祖藤原鎌足より相伝された黄金造りの太刀を与えられたが、それ以来、手柄を立てることが多く、下野の国に恩賞を賜って下向することになった。その頃、近江の国勢田橋に大蛇が横たわって貴賤の通交を妨げることがあった。これをあやしく思った藤太は、勢田の橋におもむいて、大蛇を踏んで平然と通り過ぎた。

 

その夜、美女(龍神の化身)が藤太の宿舎を訪れ、三上山のむかで退治を依頼する。藤太はこれを引き受けて重代の太刀を佩き、五人張りの弓に十五束三伏の矢3本を持って三上山に向かい、見事に巨大なむかでを射止めて、刻んで捨てた。

 

翌朝女があらわれて、むかで退治のお礼として藤太に巻絹、首を結んだ俵、赤銅の鍋を与える。俵は米を取り出しても尽きることがなく、このことから藤太は「俵藤太」と呼ばれるようになった。

(中略)

その後、藤太は龍神から鎧、剣、釣鐘を与えられる。藤太は鎧と剣は武士の重宝として子孫に伝え、釣鐘は「三井寺の鎮守新羅大明神は弓矢神であるから、子孫の武芸を祈るべし」という父村雄のすすめに従って三井寺に寄進することにし、子の千常にその旨を三井寺の長吏大僧正に伝えさせた。三井寺では壮大な鐘供養が行われる。

 

 

勢田(瀬田)唐橋の東詰から上流方向にカメラを向けて撮影した。

 

雲住寺はむかで退治に活躍した藤原秀郷の15代目の子孫により、勢田の唐橋のたもとに建立された。

 

龍王宮秀郷社には現在二つの社がある。

俵藤太と乙姫が祀られているという。

 

御上神社には3月16日、登山の無事を祈念してお参りした。

 

11時10分頃、三上山の登山開始。

猪が出没するらしい。

 

登り始めは石の階段で、楽しい。

 

別にここを通らなくても迂回路があるのだが、冒険心が「割れ石」ルートを選択させる。

 

割れ石の先は鎖や手すりがついているので、安心して登れる。

 

磐座付近で見た比良暮雪(ひらのぼせつ)。

手前に琵琶湖が見えている。

 

下りは裏登山道を選択する。

 

 

 

やがて下総の平将門が反逆を起こして平新皇を称し、日本国王になろうとした。
(中略)
しかし、将門が軽率な人物であることに落胆し、すぐに上洛して将門追討の宣旨を受け、三井寺の弥勒菩薩と新羅大明神に祈願して再び東国に下る。
(中略)
将門の姿は七体に見えても本体にしか影がないこと、こめかみが急所であることを聞き出し、ついに将門を射殺する。将門の首を持って上洛した藤太は、恩賞として従四位下に叙されて武蔵・下野両国を賜って子孫は将軍に任じた。

 

日本昔話の原型からは様々なことが分かる。また、所々に必要以上に正確な歴史的事実が組み込まれていることにも気付く。

 

私が興味を惹かれたのは、日本の「龍神」はむかでに負けるくらい弱いという事で、大概の日本の神様はイスラム教やキリスト教の「神」と違って、絶対でもなければ、全能でもないという事実である。
そのことが、日本の弱い神様ではなく、外国の強い仏様を導入して国を守ってもらう「鎮護国家」の思想を育て、日本の弱い神々は「かくれ神」として天皇・国家を後方から見守るという「国のかたち」を長い時間をかけて作り上げたのだ。
逆に言うと「かくれ神」が表舞台に飛び出してくるとき、日本は危ういという事になるだろう。神様は見えない方がよいのだ。

 <参考資料>
「藤原秀郷」野口実(吉川弘文館2001年発行)

「三井寺」(三井寺発行の48ページ冊子)

 

東詰にある「俵藤太のむかで退治」の絵。左上に三上山が描かれている。

 

雲住寺に隣接して、1440年頃、龍神を祀って建てられた「龍王宮秀郷社」。

 

俵藤太が龍神からいただいた梵鐘は、今も三井寺に重要文化財として保管されている。

 

国宝の本殿。鎌倉時代の建立と推定。仏堂的要素が融合。

 

「魚釣岩」。大昔、琵琶湖の水位がこの付近まであって、神様が魚釣りをしていたと伝わる。

 

頂上が近づくにつれ、大岩が行く手を阻む。

 

狭い石の隙間をやっと通り抜ける。短パンの人やおデブちゃんは通れないだろう。

 

お約束の磐座(いわくら)。古来から信仰の山となっていたのだろう。

 

中央左に見えているのが比叡山。

頂上には12時05分に到達(登り55分)。

 

比較的楽な下りで、40分ほどで麓までたどり着いた。