三井寺の正式名称は「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)。重要文化財「仁王門」。

 

三尾神社

 

さざなみや志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな(平忠度)

 

狂言「薩摩守」では渡し船に乗り、「平家の公達、薩摩守忠度」と言って船賃を踏み倒そうとする僧が登場しており、戦前の教育を受けたご年配の方々にとって「薩摩守」とは「無賃乗車」のことだとは常識の範囲であった。そんなことを子供の頃、母親から教わった記憶がかすかに残る。

今は「スイカ」や「イコカ」などのICカードが普及し、「無賃乗車」そのものが死語になりつつある。「無賃乗車」の経験がない若い人には「平忠度」その人誰なの?という事かもしれない。

 

平忠度(1144年生~1184年没)平清盛の異母弟にあたる。
文武両道の歌人として知られ、平家一門の都落ちに際して、一旦都を脱出した後京に戻り、藤原俊成に自作の歌を託した。藤原俊成は朝敵となった平家一門の名前を出すのを憚って、「千載和歌集」に詠み人知らず「故郷の花」として平忠度の歌を一首掲載している。それが冒頭の和歌である。

「さざなみや」で始まる和歌は、戦前の教育を受けた人たちにとって当然知っていなければならない常識のようなものだった。
しかし、「昔ながらの」が「長等山」にかかる掛詞だったとは、大津に来て初めて知った。その土地に来なければ分からないことは確かにある。


「故郷の花」と題したのは藤原俊成か平忠度か分からないが、平忠度が都落ちに際して、二度と故郷の桜を見ることはないだろうと予感していたことは間違いないと思う。

 

イギリスの湖水地方には一度行ってみたいと思っている。
Helen Beatrix Potter(ヘレン・ビアトリクス・ポター)はピーターラビットの生みの親として知られる。
湖水地方と言えば、ウィンダミア湖であり、ウィンダミア湖と言えば、ポターであり、ポターと言えばピーターラビットということになる。
ピーターラビットは1902年に出版されているので100年以上前の絵本になる。しかし、ピーターラビットには常に「斬新」という感覚が付きまとう。

 

ポターは、生前から設立されて間もないナショナル・トラストの活動を支援しており、遺言によりナショナル・トラストに寄付された土地は4000エーカーに上ると言う。今日われわれが昔ながらの湖水地方の風景とポターの家を見ることが出来るのも「人と自然との在り方」を熱心に追求したポターの功績だろう。

 

「湖水地方」にウサギが付き物なら、「琵琶湖」にもウサギの神社がある。三尾神社がそれにあたる。三尾神社の境内にはウサギが一杯いる。
三尾神社は単なるウサギの神社ではないのだが、それを説明するのには時間がかかりそうだ。なるべく簡潔に分かり易く書くつもりだが……

 

秋里籬島「東海道名所図会」(寛政9年・1797)には三尾神社について次のように記載されている。
「南院琴尾谷にあり。五社鎮守のその一なり。長等南院の地主神なり。例祭三月中の兎の日。神輿三基。本地堂には普賢菩薩を安ず。祭神は赤尾・黒尾・白尾なり。赤尾を本神とす。この鎮座は太古にして知る人なし。白尾は大宝年中(701年~704年)に現じ、黒尾は神護景雲3年(769)3月14日、湖水より現ず。その古跡を大波止という。社殿にいわく、赤尾天照大神、黒尾新羅大神、白尾白山権現。」

 

また、「浪漫紀行・三井寺」卯田正信によれば、「三尾神社」は次のように紹介されている。
「太古の昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が長等山の地主神として降臨したのが縁起の始まりとされ、神はいつも赤、白、黒三本の腰帯を垂らしていたのが三つの尾を曳くように見えたところから三尾と名づけられました。」
「腰帯は、それぞれ赤尾神、白尾神、黒尾神となり、本神である赤尾神が最初に三井寺山中の琴緒谷(ことおだに)に出現。それが、卯年の卯月卯日、

 

三尾神社の近くに長等神社があり、その境内に案内板が立っていた。

日吉大神など五柱を祀る。

 

三尾神社の神門付近。

 

真向きの兎が御神紋。

 

親子のウサギ 1

 

夫婦のウサギ。

 

長等小学校の正門。

 

 

 

卯の刻に、卯の方角から現れたため、当社の使いとして、瑞祥の神獣である兎が選ばれたと伝えられています。

御神紋も真向(まむき)の兎。その後、白尾神が現在地に、黒尾神は鹿関(かせぎ)の地に出現しますが、三神は明治になって当地に合祀されます。」

 

ホームページ作成の最初に「かくれ神」として紹介した「新羅明神」が黒尾大神として「三尾神社」にも祀られていることに改めて吃驚した。とともに、新羅明神を祀る理由が少しは見えてきた気がする。

 

白村江の敗戦から日本が立ち直る過程で、進駐軍である新羅の神様に天武天皇は多くの期待を抱いたであろうことは、容易に想像できる。それは、太平洋戦争の敗戦から日本が再び立ち上がる過程と重なると言ってもよい。今の日本があるのは、日本が強いアメリカに従属し、その文化を受け入れることで復興を成し遂げたことと重なるということだ。
実際、マッカーサー神社を建立することが、昭和天皇の弟の秩父宮殿下らを発起人として進められた経緯がある。これが実現していれば、白村江の敗戦後、天智天皇が死去し、弟の大海人皇子が大友皇子を破って天皇になった「壬申の乱」と同じ構図になるところだった。

 

太平洋戦争敗戦後の日本の指導者たちには、日本文化をアメリカ文化に従属させることにどのような思いがあったのだろう?白村江の敗戦(663年)から太平洋戦争の敗戦(1945年)まで1300年ほどの時代経過があるものの、敗戦後の様相は共通するものがある。

 

三尾神社に隣接して長等小学校がある。小学校の児童に横光利一が卒業生であることを、今でも教えているのだろうか?
横光利一(1898年生~1947年没)
菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。私の母によれば、「当時、女学生の間では芥川龍之介より人気があった」とのことである。代表作に「日輪」「機械」などあるが、女学生の間では「春は馬車に乗って(1926年)」が特に人気があったと言う。

当時は芥川より横光のほうが高く評価されていたが、戦後は逆転して芥川がもてはやされるようになった。横光利一は戦争遂行に協力したとして評価を下げたが、当時戦争に協力しなければ「非国民」の扱いを受けたことから考察すれば、何とも気の毒としか言いようがない。

 

「春は馬車に乗って」は病妻記に分類されるが、最後はこのように終わっている。
「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先に春を撒き撒きやって来たのさ」
妻は彼から花束を受け取ると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚(こうこつ)として眼を閉じた。

 

三尾神社を出て、隣接する長等小学校の正門を探す。ぐるっと回りこむように半周すると正門に出るのだが、そこに「梅田雲浜」の碑が建っている。
梅田雲浜(1815生~1859没)
小浜藩士の次男として生まれる。嘉永5年(1852)藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪される。大津に湖南塾を開いていたが、吉田松陰と知り合い尊王攘夷の急先鋒となる。大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となる。安政6年獄中死。
吉田松陰の陰に隠れて余り知られていない人物だが、吉田松陰より過激だったのではないかと思われる。

(辞世の歌)
君が代をおもふ心の一筋に わが身ありとも思はざりけり

 

<参考資料>
白洲正子「かくれ里」より「花をたずねて」講談社文芸文庫(1991年)
横光利一「春は馬車に乗って」新潮文庫(1969年)
卯田正信「浪漫紀行・三井寺」(三井寺のホームページより)

 

 

 

長等神社の楼門(1905年)市指定文化財。

667年頃、天智天皇が須佐之男命を祀ったのが始まりとされる。

 

三尾神社の拝殿。

 

手水鉢の所にも檻に入れられたウサギがいる。

 

親子のウサギ 2

 

ここからお参りする。

 

正門の右脇に「梅田雲濱先生湖南塾址」と書かれた石碑が建っている。