近江八幡の発展を支えた八幡堀。

 

日牟礼神社と左義長祭

日牟禮神社

 

275年、応神天皇が奥津島神社から帰還の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した。その後、その仮社跡に日輪の形を二つ見るという不思議な現象があり、社を建て「日群之社八幡宮」と名付けられたという。
691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで日牟禮社と改められたと伝わる。

 

天降りの神の誕生(みあれ)の八幡かも ひむれの杜になびく白雲

 

日輪を二つ見たというのは、皆既日食の黒い太陽と、日食が終わり再び日光が漏れ出し、新しく生まれた太陽との二つと解釈することが出来る。
つまり、「神の誕生(みあれ)」とは皆既日食が終わり、「太陽が新しく生まれた」ことを指すと思われる。
「ひむれ」とは、「日漏れ」から転じたと思われるが、多分どこにも書かれていない素人の感想である。「むれ」とは元々は「山」「森」という意味のようで、当時は「おじいさんは山へ柴刈りに」のように、「山」と「森」は同じような意味で使われていた。
さすれば、「ひむれ」とは「日森」「火森」「檜山」「火山」など様々に解釈することが出来るが、それがまた真実を曖昧にする。

 

3月12日(土)は祭の交通規制で、バスはヴォーリズ学園前で停まった。ヴォーリズの近江兄弟社はメンタームで有名。

 

今年は猿がモチーフらしい。

 

ケンカと言われるダシ同士のぶつけ合いが行われる。

 

ダシに乗っているのは役員と呼ばれる人らしい。

 

思い思いに派手ないでたちで装う。

 

本町では酒の一気飲みが始まった。

 

 

 

文字の発達が日本では遅れたため、「ことば」を文字に置き換えるに際して、あまり注意を払わなかった節がある。後に「ことば」に漢字を当てていくわけだが、「ひみこ」を「卑弥呼」と当てたり、「ひるこ」を「蛭子」と当てたりする伝統が、今も「よろしく」を「夜露死苦」と当てるような文化を生んだと言えるかもしれない。

 

左義長祭

 

近江八幡は織田信長亡き後、豊臣秀次が八幡山城を築き、それにつれて安土から移住した人々を中心に発展した。
それゆえ、この左義長祭のルーツも安土にあり、「信長公記」によれば、毎年正月に安土城下で左義長祭が盛大に繰り広げられ、信長自身も異粧華美な姿で躍り出たと記されている。現在は、牟礼八幡宮の火祭となっている。


もともと左義長は中国漢時代の正月行事として行われ、爆竹によって厄除けしたと言われている。
わが国では承久元年(1219)より、鎮護国家、五穀豊穣を祈る祭りとして行われるようになった。
近江八幡では、豊臣秀次が八幡山城を築いて城下町を開いたのと同時に、氏神八幡宮の祭礼として定着したと言われている。

 

左義長祭のダシ(13基)が一堂に会するのは祭りの最初だけだそうだ。14時から渡御が出発し、町で出会うとケンカが行われる。 

すべて食材で飾り付けられているとは思えない。

 

大変混みあってきた。パンフにはドローンの使用は禁止。

 

通行人もケガをしないようによけて歩く。

 

近江八幡は美人が多いのでも有名らしい。

 

渡御出発前の景気づけとはいえ、心配になる。