小比叡(八王子山・牛尾山)の中腹から見た琵琶湖。左手に延びているのが琵琶湖大橋。
日吉大社の神々
坂本観光協会の「比叡山坂本サンポ」によれば、
比叡山は、古くから神の宿る山として崇敬されてきた霊山です。古事記に「日枝の山に坐す」と記された大山咋神(おおやまくいのかみ)は、地主神として地域の人に敬われていたと考えられています。
また日吉大社境内にある牛尾山(通称八王子山)山頂近くにある金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれる巨岩は、古代信仰の磐座(神が降臨する場所の目印)とされ、眼下に琵琶湖や湖南の平地を見下ろす聖地にふさわしい場になっています。
大山咋神は「大山に杭を打つ神」で、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。「日枝山」には日吉大社が、松尾には松尾大社があり、ともに大山咋神を祀っている。
一方、近江山河抄(白洲正子)「日枝の山道」によれば、
(東本宮)本殿に向かって左側に「樹下(このもと)社」という摂社があるが、景山先生(景山春樹)の説によると、これが日吉信仰の原点で、玉依比売(たまよりびめ・たまよりひめ)を祀っている。( )は原文を捕捉。
古代の「山の神」は一般に女神であるとされており、今でも自分の妻のことを「山の神」と言うことがある。
神社について考えたことのない方には少し難しいかもしれないが、古代の神社は山上の「奥宮」、山下(ふもと)の「里宮」、平地(平野)の「田宮」と三層構造になっているのが一般的な形式のようだ。
京阪電車の坂本駅を降りて最初の鳥居。
東本宮に続く二宮橋。天正年間に豊臣秀吉が寄進したと伝えられる。現在の石橋にかけ替えられたのは、寛文9年(1669)。
東本宮の「樹下(このもと)社」。
社の後ろに小比叡(金大巌)への参道がある。
階段を登り始めて、最初は結構大変。
30分ほどで牛尾宮が見えてくる。
二つの社の間に金大巌が現れる。玉依姫の御陵という表示はない。
頂上付近からの眺望。靄がかかっているが、中央に近江富士(三上山)が見える。
頑丈に作られた大宮橋。
寛文9年(1699)に石橋に架け替えられた。
<日吉大社の神々のお姿>
比叡山で生まれた新たな仏教は、日吉の神々によって守られ、神仏一体となって国家を守護する役割を担うことになる。
やがて、本来別々の存在であったはずの神と仏を一体のものとする本地垂迹説が唱えられ、日吉の神々もそのように解釈されていく。
本来の姿を本地仏、その仮の姿を垂迹神と呼ぶ。
日吉大社の七神のお姿は次の通り。
だから、春になると山の神が降りてきて、田の神になっても何ら不思議ではない。
古代人の考え方は割り切れないのが普通だし、割り切らない方が間違わないと思う。
秦氏などの渡来系の人が多く住み着いた後に、物を生むためにお婿さんが必要になり、そこで大山咋という男神が付加された。それでもなお、山上の磐座(金大巌)は玉依姫の御陵と伝えられ、原始の姿を留めている。
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日吉社は始め大山咋神を祀る地域の社でしたが、後に天智天皇が都を大津に遷都された翌年の668年、奈良・三輪山から大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請し、日吉社に祀られるようになったと言われています。現在の西本宮がそれで、地域の神にとどまらない広がりがそこに生まれました。
(中略)こうして日吉社は延暦寺を守護する神として位置づけられ、延暦寺の発展とともにその信仰は深化していきました。
京都から見て比叡山の陰に隠れる位置に日吉大社はあり、延暦寺を陰ながら見守る「かくれ神」となっていったと考えられる。
三井寺を見守る「かくれ神」としての「新羅明神」と似たような構造が見て取れる。
鎮護国家を図式的に表すと下のようになる。
民(たみ)―国家―天皇―延暦寺―日吉大社
単純化して分かったような気になるのは良くないが、ここまでの図式化はお許し願いたい。
美しい穴太積みの石垣が続く。
東本宮に続く参道にもいくつか磐座が無造作に置かれていて、歴史の深さを感じる。
大山咋神を祀る東本宮。
早朝訪れたので、祝詞に立ち会えた。
階段を登り切った後はなだらかな山道が続く。
左が三宮宮。右が牛尾宮。
比較的新しい燈籠に見えるが、山王八王子の表記は牛尾宮の旧称である。
下山して、走井橋を見に行く。
美しい石橋だ。
慈光院の穴太積みの石垣は特に美しい。
渡来人の石の文化の影響があるのかもしれない。
西本宮(旧称大宮)釈迦如来
東本宮(旧称二宮)薬師如来
宇佐宮(旧称聖眞子)阿弥陀如来
牛尾宮(旧称八王子)千手観世音菩薩
白山宮(旧称客人)十一面観世音菩薩
樹下宮(旧称十禅師)地蔵菩薩
三宮宮(旧称三宮)普賢菩薩
さらに日吉東照宮には徳川家康が祀られている。
神号は東照大権現で、本地仏は薬師如来である。慈眼大師天海と山王一実神道については、別の機会に触れたい。