関口芭蕉庵(東京都文京区)。

左写真の松と右絵の松は似ているが、江戸期の松は枯れて2代目とのこと。

芭蕉庵のすぐ側に椿山荘があり、椿山荘の崖下に大洗堰の遺構が残っている。


 

名所江戸百景

 

歌川広重の最晩年の連作「名所江戸百景」は、安政江戸地震(1855)の翌年安政3年(1856)から安政5年(1858)9月に広重が亡くなるまで描かれた。
翌年(1859)2世広重の「赤坂桐畑雨中夕景」を加え全119景が魚屋栄吉(版元)から出版され、「名所図会」の集大成として江戸の町人を始め、参勤交代で江戸に滞在した武士の故郷へのお土産としても買い求められた。

 

「名所江戸百景」全119景中、海・湖・田・川など「水」が描かれた「風景」が93景あり、広重の水へのこだわりがうかがえる。
広重の描いた「風景」は江戸から明治になってもほとんど変わらず残っていたが、1923年の「関東大震災」及び1945年の「東京大空襲」の復興の過程で「水」が失われ、「水」のある「風景」が失われ、当時の「風景」を想像することが難しい状況になってきている。

 

「人と自然との在り方」について、何かヒントはないものか、「名所江戸百景」にその答えを探る。まずは「関口上水端芭蕉庵椿山」から始める。

 

五月雨に隠れぬものや瀬田の橋(元禄元年1688)芭蕉45歳の作

 

 

 

松尾芭蕉(1644~1694)について何かを書くのは大変心苦しい。芭蕉や俳句の専門家が大勢いる中で、何か新しい知見を付け加えることは多分できないだろうと思うからだ。そこで芭蕉については必要最小限の記載に留めたい。

 

芭蕉が江戸に出て「桃青(とうせい)」と号していたころ、小沢卜尺(ぼくせき)の紹介で神田上水の修復作業に携わったとされている。肉体労働ではなく、たぶん帳簿付けのような事務方だったと思われるが、詳細は不明である。この時期住んだところが、後に「関口芭蕉庵」と言われるようになった。

 

関口芭蕉庵の案内板には次のような説明がある。
「芭蕉は、早稲田田圃を琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで芭蕉の真筆(五月雨に隠れぬものや瀬田の橋)の短冊を埋めて、五月雨塚と称した。」


この説明版には書かれていないが、芭蕉が神田上水の修復工事に携わった延宝5年(1677)の100年ほど前には早稲田から飯田橋にかけて「白鳥池」があり、芭蕉は早稲田田圃の先に「白鳥池」を幻視していたと思われる。つまり「白鳥池」を琵琶湖に見立ててその風光を愛していたのだろう。

 

芭蕉の墓所は琵琶湖のほとり「義仲寺」にある。芭蕉は生前この寺と琵琶湖を愛し、大坂で亡くなった芭蕉を弟子たちは遺言通り、木曽義仲の墓の隣に埋葬した。

 


松尾芭蕉の墓。

木曽殿と背中合わせの寒さかな(ゆうげん)

 

 

木曽義仲の墓。

戦国時代に荒廃した寺を再興したのが、近江守護で宇多源氏の流れをくむ佐々木氏。

 


徳川家康が江戸に入府する天正18年(1590)以前の江戸の様子。

飲料水の確保と治水が急務で、江戸初期の飲料水として「溜池」や「白鳥池」「小石川大沼」の水が利用された。大雨が降るたびに洪水に悩まされたので、治水対策として1620年ごろ「神田山」が切り崩されて「神田川」が隅田川に付け替えられると、白鳥池や小石川大沼は干上がっていったと思われる。

寛永6年(1629)に神田上水が水戸屋敷に引き込まれ、後楽園の造園が始まった。

地図上の小石川大沼の大部分が水戸屋敷に生まれ変わったことになる。

  

今後の「名所江戸百景」の予告


王子滝野川(安政3年4月改印)東京都北区。

比較的江戸時代の面影が残っている。右絵の「松橋弁才天」は洪水の時に流され、コンクリート護岸に変わったのは昭和50年(1975)頃と比較的新しい。右絵の「松橋」は今は下流に付け替えられ、左の写真に写っている橋は「紅葉橋」。金剛寺(紅葉寺)だけが今と変わらず崖の上に描かれている。