白鬚神社。鳥居の先に見えているのが「沖島」と「沖つ島山」。

鳥居の右にはみだしているのが「長命寺」あたりだろう。

 

白鬚神社

 

白鬚神社は、交通量の多い国道とぎりぎりのところに社殿が建ち、鳥居は国道を跨いだ先の湖水の中にはみ出てしまっている。

 

思いつつ来れど来かねて三尾が崎 真長の浦をまたかへり見つ(万葉集)

 

万葉の時代には大変美しいところだったらしいが、今ではその面影はない。ぼやぼやしているとトラックに撥ねられそうだ。

 

お能に「白鬚」という曲があり、白鬚神社の由来を語っている。
「未だ神代の頃、釈迦が日本に渡来して、仏法流布の霊地を探していたが、琵琶湖のほとりで、釣り糸を垂れている翁に会い、土地を譲ってくれないかと交渉したが、翁は6千年も前から、この山の主として住んでいるので、釣りをする場所がなくなるからいやだと言って断った。
そこへ薬師如来が現れ、自分は2万年も前から住んでいるのに、この老人はそれを知らない。早々に開闢(かいびゃく)したまえ。その時我も山の王となって、仏法を守護するであろうと誓い、釈尊ともども去っていった。老翁はその時以来仏法に転向し、白鬚明神として祀られるに至った。」

 

ここからは白洲正子さんの「近江山河抄」からの引用になる。
「白鬚神社が建つ岬を権現崎と呼ぶが、その北には安曇川(あどがわ)の三角州が突き出ており、古くは安曇(あずみ)族の根拠地であった。

 

  

交通量の多い国道を横切って鳥居にできるだけ近づいて撮影した。

 

右から「拝殿」「本殿」。

奥宮へ続く鳥居とその先に石段が見える。

 

三尾(みお)の海に網引く民のてまもなく 立ち居につけて都恋しも(紫式部)

 

見事に咲いた花の左側に「磐座」が見えている。この花はシャクナゲだと思うが、何だろう?

 

鵜川四十八体石仏。苔むした山中に阿弥陀如来の石仏が、33体並んでいる。

 

坂本の慈眼堂に13体の石仏が残されている。たまたま、4月14日に撮影していた。

 

山道を近江高島に向かってひたすら歩いていく。車で来る人が多いのか、出会う人もない。

 

 

 

彼らがどこから来たか不明だが、漁業に携わる特殊な集団で、越前のほうから流れ着いた外来民族ではないかと言われている。」

 

「…越前と朝鮮との距離は歴史的にも地理的にも、私たちが想像する以上に近いのである。太古の昔に流れ着いた人々が、明るい太陽を求めて南へ下り、近江にたどり着くまでには長い年月を要したと思うが、初めて琵琶湖を発見した時の彼らの喜びと驚きを想像せずにはいられない。竹生島には雄島の俤(おもかげ)を見たであろうし、明神崎に故郷の海浜を思い浮かべたかもしれない。そこに彼らの神を祀ったとしても、私には不自然とは思えない。
三井寺には新羅明神(しんらみょうじん)と名づける不思議な神像があるが、シラヒゲはシラギの訛ったものではあるまいか。たしかその神像も、老人の姿をしていたように記憶している。有史以前に住み着いた神が、老翁の姿で象徴されるようになって、シラギがシラヒゲに転じたのではないか。6千年とか2万年というのは、安曇族の古さを誇張しただけで、釣りをする翁が、彼らの生活の姿であったことは言うまでもない。」

 

「…白鬚の神の勢力は、比良山の東側だけでなく、遠く湖南のほうまで及んでいたことが分かる。近江に帰化人が住んだのは、ただ漠然と広い土地が空いていたからではない。大仏建立の裏にも、大津の京の建設にも、彼らが「帰化人」と呼ばれる以前からの、長い歴史が秘められていた。」

 

<参考資料>
「近江山河抄」(白洲正子)講談社文芸文庫1994年(初版は1974年駸々堂出版より)

国道わきの白鬚神社拝殿。

湖と陸地にそれぞれ鳥居が建っている。

 

石段を登ったところから「本殿」「拝殿」を撮影した。上部に残桜。下部に皐月が見える。

 

岩戸社脇の磐座。ここから先は古墳で立ち入り禁止。信仰の原点と思われる。

 

白鬚神社からの帰り、国道を避けて森に迷い込んだところ、コゲラが現れた。

 

13体が江戸時代に坂本の慈眼堂に移され、また2体は昭和62年に盗難にあったと書かれている。

 

石仏を奉安した六角氏は、もともと近江の佐々木一族の末裔とされる。

 

鵜川から高島町に入ったところに、乙女ケ池がある。恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の舞台だが、詳細は割愛する。