桂離宮の園林堂。離宮の中で異質な空間を醸し出している。

 

究極の庭「桂離宮」

 

究極の庭として有名な「桂離宮」は、また神話の庭でもある。
桂離宮は、日本庭園史において神格化されていると言ってもよい。

 

まず、ブルーノ・タウト(1880年生、1938年没)から考察したい。桂離宮が神格化される過程は、ブルーノ・タウトの影響を抜きには考えられないからだ。
タウトが来日したのは、昭和8年(1933)5月である。以後、日本で3年半を過ごすことになる。
「私は桂離宮の発見者だと自負して良さそうだ」
ブルーノ・タウトは日本滞在中の日記にそう書きつけた。
「タウト氏の著書が一度世に出て、多くの人達に読まれるようになって、桂離宮の価値認識は急激に高まり……あらゆる国民の注視を浴びるようになった。」(森蘊・もりおさむ1905生、1988年没「桂離宮」1951年)

 

一方、明治~昭和期に活躍した日本建築史の権威・伊東忠太(1867年生、1954年没)はタウトと桂離宮を好まなかった。
「桂離宮などを、パルテノンと同等に比較するような人物は、大した建築家ではない」とはっきり、ブルーノ・タウトを否定している。

伊東忠太が桂離宮をあまり買っていなかったのは、次の文章からも読み取れる。
「桂離宮内の小堀遠州作と称する茶室を、世人は深く推奨するが、これは遠州の作ではなく、桃山時代の茶室に比較すれば、著しく見劣りするのはやむを得ぬことである。」(日本建築の実相・1944年)

 

桂離宮の作庭者は、戦前は小堀遠州(1579生、1647没)と考えられていた。戦後のある時期から小堀遠州の設計ではないとなるのだが、その経緯については本論の趣旨ではないので割愛する。ただタウト自身は桂離宮が小堀遠州の設計であると信じていた。
現在、宮内庁の見解は次のようになる。
「作庭に当たり、小堀遠州は直接関与していないとする説が有力であるが、庭園・建物ともに遠州好みの技法が随所に認められることから、桂離宮は遠州の影響を受けた工匠・造園師らの技と智仁(としひと)親王及び智忠(としただ)親王の趣味趣向が高い次元で一致して結実した成果であろう(宮内庁案内パンフより)」。

 

小堀遠州は茶人の先達である千利休(1522生、1591没)や古田織部(1543生、1615没)が、時の権力者に切腹を命じられたことを良く知っており、将軍の意向に沿わない作庭は引き受けないように細心の注意を払っていた。朝廷・公家の庭園を将軍の命令もなく設計することはありえないと思う。戦後の文献発掘調査で、小堀遠州と桂離宮を結び付ける物的証拠が全くなかったことを、最後に付け加えておきたい。

 

昭和初期は伊東忠太に代表される伝統建築家とモダニズム建築家との様式闘争が勃発した時期である。
「様式建築という言葉がある。ギリシア風の柱をあしらった石造建築や、ゴシック風の窓枠を取り付けたレンガ建築を指す言葉である。いまでも、街頭のあちこちにこうした古風な建築を見かけることがある。
しかし、現在、都心のビルが石やレンガなどで建てられることはない。ほぼ例外なく鉄筋コンクリートで建築されるにいたっている。
また、そのデザインでも、ギリシア風の装飾などがつけられることは少ない。現代建築では、西洋の古めかしいデコレーションは避けられる。無駄な飾りつけを切り詰めたシンプルな意匠。トウフを切ったような直方体の平滑な表現。大半のビルは、そうした装いになっている。設計上の経済性と機能性を追求した、いわゆるモダニズムの建築が主流となっているのである。」(井上章一「作られた桂離宮神話」1997年) 。

 

 

表門は特別な場合以外は開けられることがなく、普段の出入りは、右手に回り込んだ黒御門が用いられている。

 

御幸門。

表門から入った場合は、50メートルほど歩いて、御幸門を通ることになる。

 

外腰掛の前には、場違いな蘇鉄山がある。

薩摩島津藩から献上されたもので、当時は珍重されたらしい。

 

切石と自然石を絶妙に組み合わせて配置し、長さは約16メートル。

その美しさに、何枚も写真を撮った。

 

園路を進むと突然視界が開け、水辺に降り立つ。

州浜の先に岬の燈台に見立てた燈籠が見える。その先が天の橋立である。

 

松琴亭の全貌が見えてきた。

一歩ごとに景観が変化するところが、この庭園の魅力であろう。

 

松琴亭から見た池泉の景観。

逆光でうまく撮れていないかもしれない。

 

松琴亭の一の間から二の間が覗く。

白と濃い青の市松模様が斬新で、優れた意匠と言われる。

 

 

松琴亭から天の橋立を望む。

撮影時は気付かなかったが、鶴が羽を広げ右側に鶴首が伸びている。鶴石組みだ。

 

先頭を行くのは民間のボランティアガイド。桂離宮で宮内庁職員でないガイドさんは初めてだ。

 

峠の茶屋風の賞花亭。

園内で最も高い位置にある。

 

園林堂脇の飛石と帯状の雨落石。

四角の切石が形も間隔もばらばらに左右に揺れながら打たれている。等間隔に並べたら 興ざめだ。

 

直線の美を活かした笑意軒。直線と露地構成から、遠州の影響が読み取れる。左隅に小さな燈籠があるのだが、見落としやすい。

 

土橋を渡った左手にある小ぶりな雪見燈籠。

奥に三光灯籠と笑意軒が見えている。

 

笑意軒に向かう園路には魅力的な燈籠が多い。

この三角燈籠は、笠、火袋、中台のすべてが三角形である。足ももちろん三脚。

 

草の飛石(自然石のみで構成された延段)。

後楽園の延段との比較で、どうしても写真が多くなる。しかし、美しい。

 

飛石の先に古書院。桂離宮の原点とも言える。

古書院は寛永元年(1624)桂離宮の中では、最も早く建てられた。

 

真の飛石の手前に置かれた4個の石に注目。

軽い飛石から重厚な延段への橋渡しの役割を担っているようだ。

 

 

 

昭和初期におけるモダニズムの勃興は、確実に桂離宮の評価を高めだした。ブルーノ・タウトはそうした状況下の日本にやって来たのである。

 

昭和初期のモダニストたちは、日本建築の正当を簡素美に求めていた。
「機能的」「効率的」「経済的」これらがモダニストたちの標語であった。

タウトを日本に呼び寄せた「日本インターナショナル建築会」自体が、モダニズムを標榜する団体であった。当然、桂離宮を持ち上げようとする風潮も共有していた。
公平に見て、モダニストの日本建築理解がタウトを動かした部分はあると言うべきだろう。
事実、タウトは桂離宮を拝観した時の様子を次のように書いている。

「このような建築を現代的な概念で表現するとしたら、何と言えるでしょう」、私は二人の友人にこう訊ねた。そして結局これは機能的建築であり、あるいはまた合目的な建築とも言いうるということに一致した。桂離宮の全体はどの方面から見ても、その一切の部分を挙げて融通無碍に、部分及び全体がそれぞれ実現すべき目的にかなっている。

 

ブルーノ・タウトはモダニストではないと評価されている。私は建築史の門外漢なので、よく分からないのだが、モダニストではないタウトが、モダニズム建築を推進する団体に乗せられて「桂離宮」を評価したという事なのだろうか?
タウト自身、こうした誤解があったことを知っていた。彼は桂離宮を讃えた「永遠なるもの」の中で、こう述べている。

私はかねがね、現代建築の発展は、その最も重要な基礎を機能に求めなければならないと主張してきた。しかし、「すべて優れた機能を持つものは、同時にその外観もまた優れている」という私の命題は、しばしば誤解された。それというのもこの言葉が功利的な有用性や機能だけに局限されて解せられたからである。

 

いずれにしろ、「桂離宮の美」の解説には長らくブルーノ・タウトの著述にあるモダニスト風の言説が引用されてきた。
「飾り気がなく、簡素な日本美の典型ともいうべき姿を誇っている。江戸初期の造形だが、モダンデザインの構成美に通ずる斬新さも備えている。庭園との調和も実に見事である…云々。」

 

1970年代後半、新しい桂離宮論が浮上する。例えば内藤昌らの「桂離宮」が、昭和52年(1977)に刊行されている。そして、この本は、桂離宮に「装飾主義」がみなぎっていることを、説いていた。複雑な奇想がたくまれているという見方も、打ち出している。いままでのシンプルな構成美という解釈とは、まったく違う。まるで正反対の鑑賞法を、掲げていたのである。
このころから、桂離宮評価の在り方は、内藤の示す方向へ向かいだす。旧来の簡素美ではなく、意外に込み入った装飾へ、目を向けだしたのである。
いわゆる「ポストモダン」の潮流であろう。チャールズ・ジェンクスの「ポスト・モダニズムの建築言語」が世に出たのも昭和52年(1977)で、1970年代後半から1980年代はポストモダンの時代と言われた。まさに「様々なる意匠」である。

 

桂離宮は「様々なる意匠」に関係なく、蛍のようにひっそりと暗く静かにその美を光らせてきた。「伝統美」で見ようと、「モダニズム」あるいは「ポストモダン」で見ようと、桂離宮が桂離宮であることに変わりはない。
400年に及ぶ「究極の美」がそこにはある。

 

<参考資料>
つくられた桂離宮神話(井上章一)講談社学術文庫1997年
桂離宮(監修―宮内庁京都事務所)
日本の10大庭園(重森千靑)祥伝社新書2013年

 

桂離宮への導入園路は、「霰こぼし」という手法で敷き詰められた小石で、敷石の緻密さにまず入園者は驚かされる。

 

御幸門を入ると御幸道が右手に延びている。

御殿御輿寄前の中門へ導く道だが、中門へは私たちは最後に到達することになる。

 

桂離宮には真・行・草の三つの飛石があり、外腰掛前を横に走るものは「行の飛石」と言われる。

後楽園の延段によく似ている。

 

外腰掛に座ると、右側に二重枡形の手水鉢と燈籠があるのに気が付く。手水鉢には「涼泓(りょうおう)」の銘があるらしい。

 

天の橋立の奥に見えている建物が松琴亭(しょうきんてい)。もっとも格式の高い茶室である。

州浜の先に可愛い岬灯籠も見える。

 

石橋を渡って松琴亭に到達する。

右手に池辺に下りる飛石があり、その先が「流れの御手水」と称される。

 

松琴亭前の織部灯籠。どの位置で撮った写真か覚えていないが、露地の風情が良い。

 

松琴亭の二の間。

半間の簡素な違い棚がある。棚板の下に瓢型下地窓を付け、これが裏手の風炉先窓を兼ねている。

 

蛍谷を土橋で渡り、山の斜面を飛石に導かれて登ると、賞花亭に出る。

 

 

水蛍の名を持つ燈籠である。燈籠の数と質の高さは、桂離宮の重要な点景の役目を果たしている。

 

賞花亭前の手水鉢。

複雑に打たれた飛石が美しい。

 

園林堂を出て土橋を渡る時、左手に笑意軒が見える。土橋の右手は書院群である。

 

 

小さな燈籠の拡大写真。三光燈籠という。

月、太陽、星の三光を表す。三光鳥という野鳥は「つき、ひ、ほし、ほいほいほい」と鳴く。

 

土橋を渡った右手には、書院群に誘導する延段がある。その直線構成が斬新である。

 

笑意軒の襖の引手は櫂(かい)の飾り金具になっている。ポストモダン以降、「装飾品」として紹介される機会が増えた。

 

雁行する建物群。新御殿・中書院。

一番左が新御殿で、寛文3年(1663)に後水尾上皇を招くにあたり建てられた。

 

古書院には濡縁から張り出してつけられた月見台がある。幅4メートル、奥行き3メートル、高さ1.3メートル。解説にも熱が入る。

 

真の飛石。飛石というより「延段」と言うべきだろう。その形状から「敷石」「畳石」とも呼ばれていた。「真」とは「直線のみ」を意味する。